【うちはうち。】 …村雨視点、速水×安積 作:和泉 2008/11/13
始まりは、村雨とコンビを組む桜井の一言からだった。
「村チョウ、そのタオル……」
「? なんだ?」
歯切れの悪いその口調に、自然と村雨の瞳が指導者の色を宿す。
しかし、桜井も慣れたもので、一瞬その眼差しに萎縮してみせたものの、己の好奇心には勝てなかったらしく、先の言動の続きを口にする。
「村チョウ、タオルの端のイニシャルはなんですか?」
青年と言える年齢の桜井からは、まだ幼さが抜けきれないのか、好奇心を刺激されるものを見つけると、すぐに表情に出てしまう。
本来、警察官はいかなるときでもポーカーフェイスでなければならない。
そう、自分たちが尊敬してやまない、上司の安積剛志のように。
村雨は常に安積の前では特に『完璧な部下』でありたいと望み、そう思ってもらえるように行動してきた。それは給与や出世などの査定の為ではなく、純粋に彼の力となり、認められたいと切望しているからだ。
村雨にとって安積との空間は、いまだに緊張を伴う。これもすべて安積と言う男が村雨にとって、絶対的な存在だからと言えるだろう。
彼との出会いが村雨の警察官人生を大きく変えたとも言える。
移動が付きものの警察署内で少しでも長く、この人の下で仕事がしたいと、切望したのも安積に対してのみだ。
彼の下にいられるのなら、昇進は望まない。
おそらく、今現在、安積の下にいる者は誰もがそう思っているはずだ。
上層部がどう評価しようと、村雨たち現東京湾臨海署の強行犯係の刑事は、安積に全幅の信頼と尊敬の念を抱いている。
あの人のようになりたい。
などと、大それたことは言わない。
ただ、安積の下で警察官の誇りを胸に職務を全うしたいと言うのが、村雨の今の望みだった。
だからこそ、信頼できる部下となり、安積に認められる為にも、何事にも手を抜かず仕事をしてきたのである。
それは捜査においても、若い部下の教育に対してもだ。
特に村雨は現在コンビを組む桜井には厳しく教育している。いまだにどこか頼りなさげな雰囲気が抜けきらない彼に、いつも事細かな注意をしてきた。
それが今後の桜井の為であり、安積の為になるからだ。
しかし、今の桜井を見る限りまだまだ厳しく指導する必要があるように思えてきた。
「そのAってイニシャル、もしかして村雨秋彦のAって意味?」
「……他にどんな意味があるんだ?」
同じように自前のタオルで、スーツを濡らす雨の雫を払っていた須田が、会話に参入してきた。
まるで、桜井の疑問を代弁するかのように。
「わざわざタオルに自分のイニシャル入れるの?」
不思議そうにそう尋ねてくる須田は、ベテラン刑事の領域に差し掛かっているだろうに、いまだ桜井のような好奇心を顕著に覗かせる。
つい先刻まで、雨の中、現場検証を行っていたときの緊張感はどこにもない。
現場の状況や、被害者の状態から事件性があると判断した上層部は、臨海署に捜査本部を立ち上げることを決めた。
村雨たちも呑気に談笑している暇は、本来ならないはずなのだが、須田と桜井はまだ興味深げに村雨のタオルを凝視している。
口を開かないまでも、黒木までもが無言で、ことの成り行きを見つめていた。
「…………」
村雨はそんな同僚たちの姿に深い溜め息をつくと、おもむろに口を開く。
「自分の持ち物に、名前を付けるのは当たり前の行動だろう。他の奴のモノを使わないように」
「……まあ、学生時代なら判るけど、今は自分の持ち物と他人の持ち物の区別ぐらいつくよね? 第一、同じモノを持っている可能性事態が低いと思うし」
「家族とは同じ柄のモノを使うだろう」
「えっ?! 村チョウ、家族でも別々のタオル使うんですかっ?!」
「? 当然だ」
一様に驚愕の表情を浮かべる須田と桜井の様子に、居心地の悪さを覚え、村雨は自然と黒木を盗み見る。
彼なら、ここまで表情を変えていないだろうと思い。
しかし、村雨の期待を裏切り、黒木までもが吃驚した瞳を向けていた。
そんなにも自分はおかしなことを言ったのだろうか?
表面上には出さないものの、村雨は内心焦り出す。
そんな村雨をよそに、桜井が躊躇気味に口を開く。
「て、言うことは、奥さんやお子さんとも、別々のタオルを使うんですか?」
「普通のことだろ。直接肌に触れるものなんだから、自分のを使う」
「で、でも……」
「夫婦や親子間なら、タオルぐらい共有しない? 俺の実家ではタオルは勿論、箸とかも自分のは決まってなかったけどなぁ」
手にしたタオルを凝視しながら、須田は仏像のような風貌で首を傾げていた。
「俺の家でもそうでしたよ。友達の中には、兄弟や親と下着まで共有していたヤツも居ますからね」
黒木までもが、共感するかのように、自分の意見を口にする。
「…………」
今のこの状況は、一体どういうことなんだろう。
自然と村雨の表情に陰りが差す。
現状では、限りなく村雨が異端な存在になっている。
何がいけないのか。
村雨は不機嫌さを滲ませつつ、手にしたタオルを乱暴に畳むとカバンに押し込んだ。
少なくとも、村雨家ではタオルは勿論、箸や茶碗なども共有することはしない。
自分のモノは、自分のモノ。
例え、妻や娘であっても自分のモノを使われるのは抵抗があった。勿論、その逆も当然である。
幼少の頃から、そうやって育ってきたのだから、今更変えられない。
なにより黒木の友人の下着までも共有していた話は、まったく信じられない心境であった。
潔癖症のつもりは毛頭ないが、例え親、兄弟であっても下着の共有は考えられない。洗濯をしていると言っても、やはり自分以外の人間の肌が触れたものである。拒否反応を示しても仕方がないはずだ。
と、村雨は自分の生活習慣を正当化するかのように、心の中で自身に言い聞かせる。
「ま、まあ、個人個人いろいろあるから、ねぇ!」
「そ、そうですよ! 別に家族だからってタオルを共有しなきゃいけない訳じゃありませんからねッ」
「…………」
村雨の不機嫌さを察知してか、慌てた様子で須田と桜井が取って付けたようなフォローを口にする。
黒木はこれ以上何かを言うのは得策ではないと判断し、無言を貫く姿勢を見せていた。
どちらかと言えば、村雨にとっては黒木の対応の方が好ましかった。正直、この話題からいい加減解放されたい。
どんなに言葉で取り繕っても、須田や桜井の眼には、村雨は神経質な男と言うふうに映っているのだろうから。
「? どうした? 何かあったか?」
ムッとした表情で、誰とも視線を合わせようとしない村雨の態度に、どうしたものかと須田たちが困惑しているところへ、彼らの上司が姿を現す。
「チョウさん」
あからさまにホッとした表情を浮かべる須田に、安積は首を傾げつつ彼らの元に歩み寄る。
「そろそろ、本庁から一班が配属されてくる。私たちも本部に詰めていた方がいい」
「そうですね。捜査会議の準備もあるし」
安積は村雨たちの様子がおかしいことを感じつつも、追求することはせず、自分のデスク上の書類に視線を落とす。
誰よりも多忙な男である。多少、不穏な空気を感じても、首を突っ込むような真似はけしてしない。
だが、それは部下たちに無関心だからと言う訳ではない。
信頼しているからこそ、余程険悪な雰囲気にならない限り、安積自ら部下たちの些細な諍いに口を挟むようなことはしないのである。
「急ぎの取り調べがないようなら、本部に向かってくれ。私も後から行く」
「判りました」
先刻、地域課が置いていった書類を眼にした安積が、溜め息を付きつつ席に腰を降ろす姿が、村雨たちの視界に留まる。
また、厄介事だろうか。
何かと頼られることの多い安積の元には、時には強行犯係の仕事ではないであろう事柄も舞い込んでくる。
他の署への助っ人だけでなく、同署内でも至る所で安積の力が求められていた。
村雨は少しでも安積の負担を軽くすべく、いち早く了解の返答をする。
須田や黒木、桜井もその辺のことはきちんと踏まえていた。先までの、緊張感のまるでない軽い雰囲気は消え、刑事にとって日常的な緊迫感が周囲に浸透していく。
そのときだ。
再び、緊張感のまるでない声音が、強行犯係に響いた。
「ハンチョウ」
一階を縄張りとする交機隊の速水直樹小隊長だ。
小隊長でありながら、何故か交機隊を牛耳っているところのある速水に、村雨は多少なりとも苦手意識を持っていた。
だが、自分が尊敬する上司と同期であり、何かと強行犯係に力を貸してくれる速水を邪険にする訳にも行かず、ゆったりとした歩みで、安積に接近する彼を、捜査本部に行く準備をする傍ら、村雨は視界の端で捕らえる。
なにか不穏な動きを見せたら、すぐに対応できるように。
村雨の他にも、黒木と桜井が、速水の一挙手一投足に眼を光らせていた。
「なんだ?」
肝心の安積は、その瞳に速水を捕らえると、あからさまな溜め息を付きつつも、追い払う素振りは見せず、手にした書類に視線を戻す。
普段通りの、彼らの行動だ。
何かにつけ、署内を闊歩して回る速水は、当然のことのように安積に声をかけ、時には茶を飲んでいくこともあった。それはいつしか東京湾臨海署の通常の光景になり始めている。
今日も安積の近況確認と無駄話をしに来たのかと考えていた村雨たちだったが、その鼓膜に、一瞬では理解することのできない速水の言動が突き刺さる。
「歯ブラシ貸してくれ」
―――――歯ブラシ?
一瞬、村雨だけではない、強行犯係全員の動きが停止する。
歯ブラシとは、あの『歯ブラシ』のことを指しているのか?
自分たちが知る『歯ブラシ』と言う名称のモノは一つしか知らない。
だが、付き合いの長い安積と速水の間には『歯ブラシ』と言う隠語があるのかもしれない。
そう思い込みたい面々は、固唾を飲んで安積の返答を待った。
すると安積は軽い溜め息を吐くと、デスクの引き出しから、彼が普段使用している歯ブラシセットを取り出し、速水に突き出した。
「ありがとさん」
「また、買い忘れたのか?」
「ああ、朝までは覚えてるんだがなぁ」
「年か?」
「お前に言われたくないぜ、ハンチョウ」
曲者の微笑をその口許に浮かべた速水は、後で返す。と一言残し、驚愕のあまり愕然とする他の強行犯係のメンバーには目もくれず、その場を立ち去る。
「これから、捜査会議に入るから、使い終わったら引き出しに戻しておいてくれ」
言い忘れていたと言わんばかりの声音で安積が、立ち去る速水の背に向かって声を上げる。
それに対し速水は、了承の意を示すかのように、手にした安積の歯ブラシケースを軽く振って見せた。
速水の一連の動きを確認すると、安積もやはり何事もなかったかのように、自分の仕事に没頭し出す。
本当に何事もなかったかのように。
「「「「…………」」」」
上司二人のやり取りを目の当たりにした面々は、終始無言でその場に立ち尽くす。
「? どうかしたのか?」
一向に席から放れようとしない部下の様子に、安積が不審気な眼差しを向ける。
普段とまるで変わらない安積の姿に、村雨たちは顔を引きつらせながら、会議室に向かうため歩き出す。
「……タオルや箸を家族とも共有しないのも、別に変な話じゃないよね」
廊下に出てすぐ、須田が口火を切る。それに続いて、桜井と黒木が大きく頷き、賛同を示す。
「そうですね。家族だからって、なんでも共有しなきゃいけない訳じゃないし」
「自分のモノは、自分のモノ。ってハッキリさせているのは、いっそ潔いですよ」
「「「村(チョウ)雨は普通(ですよ)だよ」」」
「…………」
しみじみと言う三人を見て、村雨は複雑な気持ちを強めた。
彼らが自分を『普通だ』と言うのは、先刻の安積と速水のやり取りを見ていたからに違いない。
彼らの行為に比べれば、自分のタオルにイニシャルを書いて、所有物であることをアピールする行動は、普通以外の何物でもないはずだ。
だからこそ、安積たちの行為と自分の行動を比較し『普通だ』と評されても、素直に喜ぶことは出来ない。
しかし、あの二人の異常なまでの親密さには慣れていたはずだったが、さすがに驚愕してしまった。
やはり、さまざまな意味で、村雨は安積のようにはけしてなれないことを再認識する。
そして改めて、村雨は自分の私物にはしっかりと名前を明記しようと心に固く誓うのだった。
〜終〜
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