【それが自然の摂理です】 … 速水メイン 作:和泉 2009/04/17
交通課が所轄内でも、特別暇な課と言う訳ではない。
刑事課、特に強行犯係や窃盗犯係・暴力犯係のような目立つ働きが常にある訳ではないものの、地味ながらも、必ず行わなければならないルーチンワークがある。
それは、係長であってもしかり。いや、係長と言う役職が付いている分、他の巡査や巡査部長よりも、面倒な手続きや雑務が山積している。
交通課と言っても管轄内をパトカーで走り、違反切符を切ることや、不審車を追跡するようなことばかりではない。どちらかと言えば、面倒な書類上の手続きを、主に行うことの方が多いのだ。
だが、その仕事をしているのか、していないのか。
疑問を抱かせる男が一人。
原宿署、渋谷署、牛込署などに囲まれ肩身の狭い思いをしている神南署の交通課に在籍する係長、速水直樹だ。
今日も今日とて、彼は日課となっている、署内パトロールに繰り出していた。
時間帯は午後7時過ぎ。
通常の日勤勤務の警察官や職員は、既に退席している時間だ。
第一、ここは神南署内である。事件が起きる可能性は限りなくゼロに近い。それでも速水が自分の勤務時間内の署内パトロールを怠らないのは、常に電波を張り巡らせるためだ。
どんな些細なことでも、署内で起きた出来事をすべて把握しておく為に。
他の者からすれば、無駄な行為と思う者もいるだろうが、人間は生きている限り無駄なことなど一つもないと、速水は思っていた。
どんな小さく、取るに足りない些細なことでも、後々何かの引き金となり、大きく発展することもあるのだ。けして、「そんなことか」と侮ってはいけない。
狭い署内を毎日徘徊していれば、いい加減ネタ切れになるだろうと、思うだろうが、これも意外に常に日々、小さないざこざや、アクシデントが落ちている。特に人間の口には戸は立てられないとはよく言ったものだ。
署内は自分たちの領域と言う認識が強いのか、警察官の中には同僚同士の気安さから、つい口が軽くなってしまう者もいる。そこから漏れ聞こえてくる事柄は、実に人間臭い醜悪さを滲ませるものもあれば、本当にどうでも良いようなくだらないこともあった。
上司や部下の前では綺麗に取り繕っている連中が、裏でも醜く器の小ささを露見する。
勿論、知ったからと言って彼らをあからさまに軽視するような、浅はかな行動を取るようなことしない。
ただ、それがある男に関わることであれば、容赦しないだろう。
そう、同じ神南署に所属する強行犯係の係長、安積剛志のことでない限りは。
本人にその意思がなくとも、安積は奇妙なところで敵を作ることがある。彼の部下に対する全幅の信頼を、軽んじて見る者もいれば、その捜査方法や存在自体を煙たがる者もいた。
だが、それは自分に出来ないことをやってしまう安積への妬みで、あることを速水は知っている。
誰も彼もが、安積のようにはなれない。
しかし、それを理解できても、速水は容認することは出来ない。
自分で出来ないからと妬むのではなく、なれるように努力するのが普通だと、速水は思っているからだ。
実際、そう簡単に誰もが安積のようになれないことは、速水も判っている。それでも、彼に敵意を向ける者に対し、速水は容赦しなかった。
その為の署内パトロールでもあるのだ。『敵』はどこに潜んでいるか分からない。無防備な状況での攻撃に対し、少しでも力になれるよう、徹底的に速水は署内の噂と言う噂にも精通する様にしていた。
表面上は、署内パトロールは速水の趣味であり、日課のように見せかけておいて、様々な情報を得るための手段と言える。
どんな状況に安積が追い込まれようと、自分は冷静に彼の力になれるように。
そんな速水が署内の至る箇所を回った後、当然のように、軽い足取りで向かった先は刑事課の強行犯係のデスクだ。
「よぉ。なんだ、辛気臭いツラして?」
定時で上がることがほぼ不可能に近い強行犯係の島には、係長である安積以外のメンバーが全員揃っていた。班長である安積がいないことに、速水は別段驚くことはない。何故なら先刻、交通課のカウンターの前を足早に通り過ぎる安積を見かけ、声をかけていたからだ。なんでも、今夜は娘と食事だと、照れを隠すかのような不機嫌な口調で、律儀にも教えてくれた。
「速水さん……」
ドラマの見過ぎではないかと思うほど、ワザとらしい演技に見える須田の神妙な面持ちの滑稽さに、速水の口角が吊り上がる。いつも通りのニヒルな笑みではあるが、どうも今の彼らには、速水のその笑みが侮辱されているように見えるらしく、他のメンバーの視線が鋭さを含む。
「どうしたんだ? デカチョウがいないだけで、そんなに不安か? いい加減、アイツにも休養を与えてやれよ」
「……その言葉、そっくりそのまま、貴方にお返ししますよ。速水さん」
「ん? どう言う意味だ、村雨?」
強行犯係一杓子定規に物事を考える男、村雨が神経質そうに眉間に皺をよせ、速水に対し言い放つ。
絵に描いたような悲壮間漂う須田の風貌と、普段は寡黙で沈着冷静な村雨の不機嫌を隠そうともしないその様子が、さらに速水の笑みを誘う。
「悩み事なら相談に乗るぞ。お前等の敬愛する安積係長ほどの信頼はないだろうがな」
口許を軽く歪ませ、速水はわざとらしいまでにゆっくりと強行犯係の面々一人一人の顔を覗き込んでいく。
最年少の桜井は、まだ速水の『毒』に慣れていないらしく、瞳を覗き込んだ瞬間、若干ではあるが腰が引き気味なのが判った。
「相談しても……」
言葉を濁しつつ、須田は視線を逸らしあからさまな溜め息をつく。言外に速水に言っても仕方ないことだと、示すかのように。
そんな態度に、速水はわざとらしく心外だとばかりに肩を竦ませて見せると、両手を腰に、再び口角を吊り上げた。
「悩みなんてもんは声に出して人に言うだけで、結構楽になるもんだぞ」
「コレばっかりは、喋ったところで楽にはなりませんよ……」
「後ろ向きな考え方だなぁ。まあ、いいから話せよ」
速水は強行犯係の面々の前を通り過ぎると、あたかも自分のデスクかのように安積の席に腰を降ろす。
まるでその席の主を彷彿とさせるような、デスクに両肘を付くと指を軽く組んでみせる。本来の速水からはかけ離れた仕草だ。
こうなると、誰かが喋らない限り、速水が立ち去らないことは明白である。
強行犯係の面々は各々に視線を向け、人身御供になる者を探り出す。だが、こういう場面で貧乏くじを引くのは大抵決まっている。
「……本当、速水さんに話てもどうにもならないし……」
「でも悩んでるんだろう?」
渋々と言った風情で口を開き始めたのは、やはり須田だった。予想通りの男が口を開いたことに気を良くした速水は、ゆっくりと組んだ手の甲に顎を載せ、話を先に促す。
「悩むって言うのは、その事をどうにかしたい。どうにか出来ないかって考えることでしょ? なら、今の俺たちには当てはまらない。だって、それは自分たちではどうすることも出来ないことだから……」
「俺は前々から気になっていたんだが、須田。なんでお前さんはそうも遠回しに喋るんだ? たまには単刀直入に言えよ」
初めは安積のような雰囲気を醸し出していた速水だったが、今一つ要点を得ない須田の語りに、早々に演じることを放棄する。
おもむろに背もたれに体重を預けると、頭の後ろで両手を組んだ。
「で、要約するとなんだ? お前等をお通夜帰りみたいな顔にさせる原因は?」
遠慮のない速水の表現に、再度顔を見合わせた強行犯係の面々は、課は違えど階級が上の相手に対し、臆することなくあからさまな溜め息をつく。
「チョウさんのことです」
「だろうな?」
意を決したように、須田が溜め息交じりの声音で、簡素な一言を吐き出す。しかし、そんな須田の決心を嘲笑うかのように、速水はあっさりと肯定した。しかも、その口許はやはり小馬鹿にしたように歪ませて。
「個々に悩んでるならともかく、お前等全員が神妙なツラしてれば、見当ぐらい付く」
一瞬、驚く面々を一瞥すると、速水は今度こそ喉から零れる笑いを抑えることはなかった。
「で、デカチョウがどうかしたのか?」
「……チョウさんがどうしたとかじゃなくって……」
歯切れ悪く、重要な箇所を濁らせる須田に、速水の視線が容赦なく突き刺さる。
まっすぐと射抜くような眼差しは、刑事である須田や向けられている訳ではない村雨たちの、背筋にも冷たいものを感じさせた。
「……方面本部の野村管理官を知っていますか?」
「野村……? 確か数日前に視察で来ていたなあ」
忘れていたと言うよりも、記憶に留めておく必要はないと判断した数日前の事柄を、ゆっくりと確認する様に口にする。
「ええ」
「その方面本部の管理官殿と、デカチョウがどんな関係があるんだ?」
「引き抜くと言う話です」
今まで寡黙に控えていた黒木が、まっすぐと速水を見据えて言い放つ。
気のせいか、若干挑発的にも感じる物言いではあるが、速水は軽く受け流す。
「引き抜く?」
「速水さんは臨海署が復活するって言う噂は知ってますよね? そこの署長に野村管理官が有力候補として挙がってるそうなんです」
「その野村管理官直々に、臨海署の強行犯係の係長として、安積係長を引き抜く動きに出たらしいです」
黒木が口火を切ったことによって、桜井も発言しやすくなったのか。しかし彼は若い分、まだ感情をうまく抑えることが出来ないようだ。僅かに身を乗り出し、速水の顔を覗き込む。その後ろで、村雨は神経質そうに、額に落ちる前髪を指で払いながら、桜井の言葉に補足を加える。
「野村管理官自ら声を掛けていたらしいですから、信憑性は高い」
「だから?」
大袈裟なまでに肩を落とし、自分は落ち込んでいるんだと体現する須田に、速水は先刻と変わらない声音を吐く。
「だからって……ッ! ……速水さんも人事じゃないんですよ。もし、その話が本当なら、速水さんだってチョウさんと違う所轄になっちゃうんですからねッ」
珍しくも声を荒げる須田に、速水は俯き加減に軽く頭をかくと、ゆっくりと腰を上げた。
「なんで、俺がデカチョウと違う所轄になるんだ?」
「え……ッ?」
呆れたような口調と眼差しで、速水は強行犯係の面々を一瞥する。
両手を腰に置き、いつもの速水直樹のスタイルに戻る彼を、須田たちは茫然と見つめた。
「デカチョウが臨海署に移るなら、当然、俺も臨海署の交通機動隊に戻る。当り前だろう」
「は、速水さん?」
唖然とする須田たちを横目に、速水はタイムオーバーとばかりに、両手を広げて見せると、長い足を有効活用するような大股で歩き出す。
「どうせ、デカチョウの元から放れるかもしれないって、感傷に浸ってたんだろうが、そんな腹の足しにもならないような感情はさっさと捨てろ」
誰も引き留めないことをいいことに、刑事課の出入り口まで歩みを進めると、一旦足を止める。
「少なくともデカチョウのことだ。一人でノコノコあのベイエリア分署に戻るとは思えない。なんか考えてるだろうよ。……お前等のことは」
「ッ……、速水さん……」
振り返りはしなかった。
軽く手を揚げ、また歩き始める。
署内パトロールはこれで終了だ。
速水は一階へと続く階段を降りながら、自然と綻ぶ口許を抑えることが出来ずにいた。
やはり、戻ってくるか。あの男も。
あの肥溜めのようなベイエリア分署に。
正式な辞令はまだ先だろうが、速水の中で新たな楽しみが生まれる。
再びあの潮風を二人で感じる日はそう遠くはないことだろう。
〜Fin〜 |