【他所は他所】 … 村雨中心 速水×安積 作:和泉 2009/05/02

 トイレとは働く者の『オアシス』である。
 特に所帯を持つ男にとって『トイレ』とは、職場でも自宅でも、唯一一人になれる空間なのだ。
 狭いながらも、落ち着ける場所。
 ここにも一人、そんな職場の『オアシス』で一時の休息を得ている者がいた。
 東京湾臨海署、通称ベイエリア分署の強行犯係に在籍する村雨だ。
 彼は現在署に設置された捜査本部の事件を担当していた。同僚の須田は相棒の黒木とともに、代々木署の捜査本部に駆り出されているため、今回の台場で起きた殺人事件は係長の安積と村雨、桜井が参加していた。
 元々人員の少ない臨海署で、強行犯係から三人しか捜査に当たれない現状が、やはり捜査一課の相楽の神経を刺激したらしく、クドいほどの文句を言われた。
 彼は所轄の現状を、何一つ分かっていない。
 村雨は毎回、何かにつけて安積に厭味を吐く相楽の存在が苛立たしかった。
 別段、自分が標的となり、攻撃をされている訳ではない。
 相楽が無駄なほどにライバル視するのは、自分の上司にだけである。
 直接、自分には関係ないのだからと、無関心を貫き通せば良いのかもしれないが、こうも侮辱に近い暴言を聞かされれば、いくらなんでも聞き流すことは難しい。
 周囲からは沈着冷静だと称えられる村雨でも、時々相楽の厭味に反応してしまいそうになる。
 その点、やはり安積は凄い。
 どんなに相手から挑発を受けでも、相手にしない。それどころか、そんな相手がいても事件解決のことを最優先に考え、己の感情は押し殺し続ける。余程のことがない限り、彼が感情的になることはなかった。
 時として、安積の捜査手法に手緩さを感じ、疑問を抱くこともあるが、それでも心から尊敬できる唯一の上司だ。安積の元に来るまで、様々な上司の下で警察官としてのノウハウを叩きこまれてきた村雨だが、その中でも安積は別格である。
 彼がいるから、時として自身ですら嫌悪してしまいそうになる『刑事』と言う職を、投げ出さずにいられるのであった。
 彼の下でなら、『刑事』でいることに誇りが持てる。
 だからこそ、村雨は安積の前では、何をするにしても無意識に力が入ってしまうのかもしれない。
 使えない部下と思われたくない一心で。
 その結果、時々ではあるが、ガス抜きの為トイレの個室に籠っていた。
 薄い壁や戸ではあるが、署内で唯一、一人になれる空間だ。
 外階段も息抜きをする場所としては、捨てがたいのだが、あそこは先客がいることが多い。
 その点トイレは各階に必ず設置されている上、個室も複数ある。一つをある程度の時間占拠していても、周囲に迷惑をかける心配がなかった。
 村雨は便座に腰を下ろし、膝に肘を乗せ、両手で顔を覆い、ゆっくりと細く息を吐き出す。
 不思議なほどに、落ち着く一時だ。
 肩から力が抜け、心身を蝕んでいた苦痛が和らいだように思える。
 と、そのときだ。誰かが、トイレに入ってきた。
 誰もが持っている生理現象を解消する場所である。出入りが多くてもおかしくはない。
 個室にいる村雨も、特に気にすることなく、ちょっとした休息を取り続ける。
 だが、一向に用を足す気配がない。
 不思議に思い村雨が、見えるはずがないのに、足元に落としていた視線を上げる。
 すると、鼓膜に届く水が流れる音。どうやら洗面所のみの、利用だったようだ。見えない相手の行動が判ると、自然に安心する。
 違和感が解消されたとともに、村雨は再び視線を床に向けた。自分の世界に入るために。
 それから暫く間、薄い戸を隔てて、分からない相手と二人きりになる。
 どうやら相手は、食後の歯磨きをしているようだ。微かにブラシの音が、村雨の耳にも届く。
 すると、再びトイレのドアが開く音がした。
「ッ……安積さん」
「ッ」
 新たに現れた男の声音に、思わず声が出そうになり、村雨は両手で口を押さえる。
 まさかの相楽だ。
 帳場が立っている以上、彼がこの署内のどこにいても不思議はない。
 しかし、何故わざわざ本部が設置された会議室から最も遠いここを利用するのか。
 顔を合わせた訳ではないのに、村雨は嫌な気分になる。
 折角のリフレッシュの為の空間だ。さっさと用を済ませて、退出願いたいと、強く念じる。
 一方、顔を合わせた安積は、歯ブラシを加えているからだろう。若干驚いた気配を孕んだが、一言も発することはなかった。
 親しい訳ではない二人である。それ以降相楽も一切、口を開く様子はない。静かに、自分の目的を果たす。
 安積の口を濯ぐ音と、相楽が用をたす音が入り混じる。
 二人の視界にはまったく入っていないのに、何故か村雨は僅かながらに自分の肩に力が入っていることに気づく。
 蛇口が閉められ、水の流れる音が途絶えるのとほぼ同じタイミングで、またトイレのドアが開く。
「ああ、ここにいたのか、ハンチョウ」
「速水?」
 歯ブラシを片しながら、安積が相手の名を呼んだのだろう。がさごそとプラスチックのファスナーが擦れる音の中に、彼の声音が混じる。
 また、随分と濃い人間が登場した。
 彼らにその存在を知られていないことをいいことに、村雨は盛大な溜め息を吐き、頭を抱える。
 よりにもよって、安積、速水、相楽の三人が揃ってしまった。
 問題が起きずに済むとは到底考えられない。
 すっかり村雨にとって『オアシス』だったトイレが、居心地の悪い空間にとって変わる。
 頼むから、全員早く出て言ってくれ。と、本気で祈り出す。
 先刻までは相楽だけに対して抱いていた感情が、他の二人にも向けられる。
 村雨の今までの経験上、この三人が揃うと碌なことがないのだ。
 絶対に巻き込まれたくない村雨は、息を潜めただ只管彼らが出ていくのを待った。
 しかし、そんな彼の願いなど、この男たちの前では叶えられる訳がない。
 新たに現れた速水は、その奥にいる相楽の存在に気づいていないのか、まっすぐと安積に歩み寄ると、恒例の問題発言を口にした。
「歯ブラシ貸してくれ」

 ……またかッ?!

 以前にも、速水からこの台詞を聞いたことがある村雨は、思わず心の中で突っ込みを入れる。
勿論、それは村雨だけの気持ちではない。
安積も呆れたように、村雨の心の声と同じセリフを言う。
「昨日買ったんだが、持ってくるのを忘れた」
「……来る前にコンビニで買えばいいだろう」
「そんな不経済なこと出来るか。この安月給で」
意外に庶民的なことを口にする速水に、安積は押し黙る。
そして無言のまま、今さっき使ったばかりの歯ブラシセットを渡したのだろう。
「サンキュー」
当然のことのように受け取り、軽く礼を言う速水に、安積があの時同様、使い終わったら引出しに入れておいてくれ。と返す。
この一連の流れ。あまりにも自然すぎるため、内容が不自然なことを見落としてしまいそうになる。
村雨も頭を抱えたまま、聞き流すだけの技量は持てるようになった。
しかし、この場にはもう一人いたのだ。
小用を済ませたであろう相楽が、二人のそんなやり取りをおそらく驚愕の瞳で目撃していたのであろう。
微かに息を飲む気配をさせた後、暫くの沈黙が続く。
「……ふ……ッ」
息遣いなのか、掠れて出た声音なのか判断しづらい、相楽の声が微かに聞こえた。
「ん? いたのか、相楽?」
速水の、今頃気が付いたとばかりの失礼極まりない言い草にも、相楽が反応を見せる様子はなかった。
そして……。
「不潔だ―――ッ!!」
聞いたこともないような裏返った声の絶叫とともに、扉を壊す勢いで、相楽が出て言ったようだ。
免疫のない人間にとって、安積と速水のやり取りは、正直真正面から受け入れるのはキツいモノがある。
それが例え、彼らにとって『日常会話』であってもだ。
だが、免疫のある村雨ですら、いまだに彼らの『歯ブラシ』共有は、受け入れがたいものがある。
何故、『歯ブラシ』が共有できるのか。
村雨は鈍痛を訴え始める頭を、手で押さえる。
しかし、そんな村雨を更に追い込む声音が鼓膜に届く。
「……便所ですることして、手を洗わずに出ていく方が不潔じゃないか?」
「確かに。自分のことが不潔だ。って言う宣言だったんじゃないのか?」
安積の冷ややかな一言と、速水の明らかにからかいを含んだ声音が狭いトイレに響く。
「…………」
彼らは気づいていない。
薄い扉の向こうで、両手で頭を抱え込む、一人の男がいることに。
常に常識的な上司だと思っていた男は、同期で親友以上の関係を持つ男に感化され、徐々に『非常識』になっているように思えた。
村雨和彦。
このとき、生まれて初めて、ほんの数秒ではあるが、相楽に同情をしたのは言うまでもない。

〜Fin〜