【TIME IS MONEY】 …速水×安積 作:和泉 2008/09/024

 しばらく混迷していた事件も解決を迎え、解散が決まった捜査本部内では仕事をやり遂げた男たちが思い思いに、恒例の茶碗酒を味わっていた。
 誰もが疲労で思考回路もまともに働かない状況の中、それでも事件解決後の茶碗酒の特別な味を放棄することができず、その場に留まりそれを堪能している。
 まるでその茶碗酒が、また明日の活力になるとでも言わんばかりに。
 だが、一人その場を足早に離れようとしている者がいた。
 神南署の強行犯係の係長・安積だ。
  彼は早々に他の者から注がれる酒を辞退し、その場を立ち去ろうと身支度を整え始める。
  「安積さん、どこに行くんだ?」
  すっかり皺の寄った上着を着用し、さあ帰宅しようと鞄を手にした瞬間、安積が最も聞きたくない声音が鼓膜に突き刺さった。
  警視庁捜査一課の相楽だ。
  彼は何かにつけて安積に絡んでくる。無視したくても到底無視できないほどの執拗さで。  安積よりも年齢が若く、おそらく将来も有望視されているであろう相楽が何故、ここまで自分を目の敵にするのか。安積は常に首を傾げずにはいられなかった。確かに何度となく小さな衝突はしている。
  だからこそ、今 彼が声をかけてきたのも、大体予想はできていた。
  しかし、安積に言わせれば、事件も解決した日ぐらい茶碗酒で気分よく見過ごしてくれてもいいのではないかと、らしくもなくあからさまな溜め息を吐き出す。
 「安積さん?」
 「……私用だ」  
  返答を催促するような相楽の声音に、安積は吐息交じりに声を出す。  
  実に簡素な返答。だが、それ以上もそれ以下もないのだ。  
  実際、本当に私用で早くこの場を離れなければならないのだから。しかし、言われた方はそれで納得するような男ではない。  
  瞬時に眉間に軽い皺が寄ると、刑事の眼差しで相楽は安積を観察し始める。  
  まるで今の言動の真偽を図っているかのように。
  「チョウさん、早く行かないと待ってるんじゃないですか?」
  「須田?」  
  このまま睨み合いが続いても埒が明かないと、安積が再度口を開こうとした瞬間、予期しなかったところから助け船が出された。  
  神南署・安積班の優秀な部下の一人、須田だ。
  「約束は守らないと。相楽警部補も解るんじゃないですか? 俺たちの仕事は誰かと約束していても、事件が起きればそっちを優先しなきゃいけない。今日みたいに早く帰れる時は、約束を優先させてもいいんじゃないですか?」  
  仏像顔ながら温和な性格がにじみ出た愛嬌のある笑みを浮かべ、須田は安積ではなく、相楽に向って言う。  
  滅多に本庁の人間に対し、率先して自分の意見を言うようなことのない須田の行動に、安積はちょっとした驚きをもって見つめる。  
  一方、相楽の方もまさか須田が意見してくるとは思ってもいなかったらしく、眼を見開き小柄ながら少々太り気味の刑事部長を凝視していた。
  「さあ、チョウさん、早く行ってください。久々に早く帰れるんですから」
  「あ、ああ……」  
  困惑を隠せない安積をよそに、須田は不思議な見えない圧力で、自分の上司を解散したばかりの捜査本部から追い出そうとしていた。その傍らでは、黒木と桜井が廊下までの道を作るかのようにその場に立ち、村雨も目線だけで早く帰宅することを勧めている。  
  そんな部下たちの態度が、一層安積を当惑させた。  
  何故なら、彼らは安積がこれから向かう先を知らないはずなのだ。言葉の端々にもけしてそれを感じさせず、今も誰にも何も言わずに退席する予定だったのである。だが、自分の部下は、これから自分が行くであろう場所を知っているかのような態度だ。
 「係長、時間がありませんから、そろそろ……」
 「……村雨……」  
 村雨からも出される助け船に、本格的に安積は狼狽する。と共に、自分の中の疑惑が確信に変わった。  
 彼らは確実にこれから安積が向かう先を知っている。
 「…………」  
  思わずその場で頭を抱えて座り込みたい衝動に駆られる。  
  純粋にこれからの安積の行動を、『呑みに行く』と思っているのなら吉。しかし、深読みされていたら、それこそ安積はこの場で憤死したい衝動に襲われるだろう。  
  優秀過ぎる自分の部下に、居た堪れなさを感じながら、挨拶もそこそこに安積はその場を足早に離れる。まさに、『逃げ出した』という言葉がピッタリと当てはまる行動に、さらに墓穴を掘ったことに気付きつつも、突き動かす無意識の行動を抑えることができなかった。  
  深読み(?)したければ、深読みさせておけばいい。  
  自分が明日も普段通りに振る舞えば、彼らは何も言わないことを安積は知っている。  
人の、特に上司のプライベートに口を挟むような無粋な行為をする者は、安積の部下には一人もいない。  
  それが例え表面上だけで、実は内心でかなり好奇心旺盛に妄想していようと、それが表に出てこなければ、安積は大目に見ようと思っている。勿論、羞恥心に駆られはするが、人の心にまでどうこう言える立場ではないのだから。  
  後方ではまだ相楽が何かを言っているようだったが、それをかき消すかのように、須田・黒木・桜井・村雨の挨拶が飛ぶ。あからさまな行動。まさか村雨までもそんな行動をとるとは思わず、片手で頭を抱えつつ、自然と口許に苦笑が浮かぶ。声には出さないが、彼らの挨拶に手を挙げ返答すると、安積は改めて時間を確認し駅までの道のりを幾分早足で向かった。



  「随分遅かったじゃねーか」
  「…………」  
  口許に意地の悪げな笑みを浮かべ、玄関の壁に寄り掛かり腕を組み立つ男に対し、安積は無意識に溜め息をつく。  
  確かに多少急ぎはしたものの、娘に会う時のような焦りもなく、電車に乗った時点でどこかのんびりとした歩調になってしまったのは否めない。しかし、『随分』と言う言葉には引っかかるものを感じる。  
  今 目の前の男は、自分が仕事から解放された時間を知らないはずだ。  
もし定時から考えて今の時刻を言っているのなら『随分』と言う単語も頷ける。だが、安積の仕事には定時などと言うものはあってないようなものであることを、この男も知っているはずだ。しかも、安積は大きな事件を抱えていた。そのことを男が知らなかったはずはない。何故なら、男も今回は一度だけではあるが捜査会議に出席しているのだ。
  だが、交通課も忙しいということで捜査本部に吸い上げられることはなく、一日だけの応援となってはいたが。
  「帳場が解散したのは、ついさっきのことだぞ」  
  自宅ではない小さな玄関で、安積は履き潰しかかっている革靴を脱ぎ男の前を通り過ぎる。  
  勝手知ったる他人の家。  
  もうこれで何度目になるだろう。数えることを既に放棄して早数年。この男の部屋が次第に自宅よりも居心地良く感じ始めている自身に、居心地の悪さを感じる。
  「ついさっきじゃないだろう、ハンチョウ? 捜査本部が解散したのは2時間も前の話だ」
  「……ッ……」
  「俺の誘いよりも、茶碗酒を取ったって訳か?」
  「……速水……」  
  先と変わらず、ニヒルな笑みを口許に浮かべ、壁に寄り掛かっていた男は、ゆっくりと安積の瞳を覗き込むように接近してきた。  

 何をやっても様になる男だ。  
 自分と同い歳とは思えないその精悍さと、雄の雰囲気を纏う男に、安積はいつも羨望と共に妬ましさを感じていた。  
  自分も一人の自宅で洗面台の鏡に映る自身に対し、まだまだ捨てたものではないと言ってはいるが、実際のところ、この男を前にするとすっかりくたびれた中年男であることを思い知らされる。  
 人間は常に己にないものを求める。だが、それは妬みと紙一重だ。  
  自分もそうありたいと望んでも手に入らない。羨望はいつしか憎悪に変わる。  
  今のところ、安積のこの男に対する感情は、羨望も妬ましさもあるが、それ以上に色々と複雑な感情があるため、憎悪に向かうことはなかった。
  「俺が知らないと思ったら、大間違いだからな」
  「……内通者がいるということか」
  「お前が素直に、相楽に絡まれて出鼻を挫かれたって言えば、俺だってこんな言い方はしないぜ」
  「…………」  

  確定だ。あの捜査本部の中に内通者がいる。ここまで来れば、安積もその内通者が誰であるか大体の見当がつく。  
 自分の最も信頼する部下の一人、須田だ。  
  彼は何かにつけ、この男、速水に情報を流しているところがあるようだ。  
  勿論、それが捜査上の重要な情報ではなく、あくまでも個人的なこと。  
  安積のことに関してのみ、連携があるようだ。
  「…………」  
  何をどう言えばいいのか。安積は今度こそあからさまな溜め息を吐き出し、一人掛けのソファに鞄を投げ出した。  
  ここに来るという約束は捜査本部が立ちあげられてから、すぐに交わされたものだった。  帳場が解散した後の安積が、茶碗酒と自宅での寝酒のみで、まともに食事をしないことを知った速水が、無理やりこの決まりごとを取り交わしてしまったのである。

  「まあいい。日付が変わる前に来たんだからな。腹減ってるだろう? 飯にしようぜ」
  「……食べてなかったのか?」
  「一人で食っても味気ないだろう?」  
  まさか速水もまだ食事を済ませていないとは思っていなかった安積は、驚き振り返る。  相手はすでにキッチンで、料理を温め直しているようだ。本当にマメな男である。彼のこんな一面を知ってる者は、一体どれぐらいいるのだろうか。
  以前、酒に酔った席で、速水の女性遍歴を聞いたことがあったが、彼は今まで付き合ってきた女性を自宅に上げたこともなければ、料理を作って食べさせた経験もないと言っていた。  すべて、安積が初めてだ。と。  
  その話を聞いた時には、酒の酔いからくる赤み以上に、頬を鮮やかな朱色に染めたのを覚えている。  
  速水は知り合った当初から仲間に対しては頼もしく、信頼するに値する男ではあるが、どこか異性に対して冷めた一面を持っていた。  
  その彼から、あんな一言を言われて平静でいられる訳がなく、無駄に酒を煽ったような記憶がある。  
  言外に『お前だけだ』と言われているようで、さすがに冷静に聞き流すことなどできなかったのだ。  
  それからしばらくはまともに顔を合わせることも出来なかったが、すでにあの頃には安積にとって速水の部屋は特別な空間になっていたため、結局、速水からの誘いを断れたのは2度まで。3度目にはなんだかんだと口実をつけつつも、この部屋に足を踏み入れていたのだ。  一人暮らしの彼の部屋は、家族と住んでいた安積の部屋よりもずっと生活感があるように感じられ、心地の良さと同時に、自分がこの空間にいていいのかと言う不安に駆られることがあった。だが、それも一瞬のこと。安積が自分の思考の世界に沈む前に、必ずその腕を掴み現実世界に引き戻す者がいる。  
  この部屋に招き入れる速水本人だ。
  「ハンチョウ。飯ができたぜ。手ぐらい洗って来い」  
  自分がどれぐらいの時間、その場に立ち尽くしていたのだろうか。キッチンに立つ速水の背中を見るとはなしに見つめた体制のまま立っていた安積に、男は不敵な笑みを浮かべ顎で洗面所に行くよう示す。  
  言われるがまま手を洗い、速水の作った遅い夕食を二人で食べる。  
  お世辞抜きに、速水は料理が上手かった。安積などはここ何年もまともに包丁を握ったことすらない。しかし、彼は今までの人生ずっと独身を貫き通していたこともあり、家事全般をそつ無くこなすのだ。  
  モテないはずはない。  
  とても45歳の男とは思えない肉体に、顔も中年独特の疲れが滲むこともなく、端正ささえ感じさせる。だが、いまだに彼は独身であり、特定の異性を作り気配もない。  

 どうして?  

  本人がその気になれば、今からでも遅くはない。しかし、肝心の速水はその意思がないようだ。  

 何故なら……。

 「ッ?! は、速水……ッ!」
  「いい加減慣れろよ、ハンチョウ。そんな毎回毎回、初な生娘みたいな反応されたら、こっちが犯罪者にでもなった気分だ」
  「なら止めろッ!」
  「そりゃあ、無理な話だ。……俺はお前とこういうことがしたいんだからな、安積……」
  「んっ……速ッ……!」  

  食事を終え、これまでの疲れから一人掛けのソファに腰を下していた安積の元に、片付けを済ませた速水が抱き締めてきた。背凭れから安積の体を横に引き寄せると、意図も容易く抱き込み、口角に軽く口唇を重ねる。慣れた動作だ。接近する気配も感じなければ、行動を起こされるまで安積は抵抗することが出来なかったのだから。  
  連日の超過勤務で精神的な疲労感にも襲われていた安積は、体力的な抵抗が無駄に終わるであろうことを推察しつつも、それでも素直になれず言葉で拒絶してみせる。  
  だが、一度としてそれが通じたことはない。  
  速水は慣れた手つきで安積の緩められたネクタイを完全に襟元から引き抜くと、Yシャツのボタンを器用に外し、露になった首筋に顔を近づけた。

  「速水ッ!!」  
  疲労した体を酷使し安積は渾身の力で、速水の肩を押しのけようと腕に力を込める。しかし、人間とは反発されると、反対に引き寄せたくなる心理状況が無意識に働くもの。しかも日頃から鍛えている男に太刀打ちできるはずもなく、安積はより一層深く速水の胸の中に抱き込まれてしまう。
  「は……やッ……んッ……!」  
  唇の端に触れていた速水の口唇が、今度こそ安積のそこを完全に塞ぐ。  
  戯れのような口付けではない。性的な意味合いを滲ませる濃厚な接吻。  
  速水の唇が僅かに綻んでいるのが、触れている安積の口唇にも伝わってくる。その感覚が相手の余裕のように感じられ、安積は無意識に抵抗を緩めていた腕に力を込め近くの肩を殴りつけた。  
  自分はまだこの行為を受け入れる気はないと、意志表示するかのように。  
  しかし、そんな安積の行為が、速水のある種のツボを刺激するらしく、綻んでいた口許は今や笑いを噛み殺すかのように小刻みに震え出していた。
  「……ホント、往生際が悪いな、お前は」
  「ん……ッ。……うるさい……、とにかく放せ」
  「いやだ」
  「私は仕事で疲れてるんだ! お前だって知ってるだろうがッ」
  「ああ、知ってる。知ってるが、その疲れだって、出すもん出してゆっくり休んだ方が、ずっと回復が早いもんだぜ」
  「ッ!」
  「歳だからとか、自分は淡白だからなんて台詞吐くんじゃねーぞ。……しっかりと反応してるんだからな、ココが」
  「ッ!! 速水……ッ!」  
  逃げを打つ安積の肢体を抱き込んだまま、速水は器用に相手の下腹部に腕を伸ばし、的確にその個所をやんわりと握り込む。  
  常に自分は若くはない。だから、早々簡単に反応することもなくなったと思っていた安積にとって、速水との接吻で意図も容易く雄としての象徴が頭をもたげるのが信じられなかった。速水はそんな安積の狼狽を感じつつ、ゆっくりと首筋に顔を埋め、Yシャツから見えるか見えないかのギリギリの位置を若干強く吸い上げる。
  「んっ! は……速水! お前……ッ!」
  「この位置なら、お前がだらしない格好さえしなければ見えない」
  「ッ……」  
  喉の奥で殺したいような笑いを洩らしながら、強く吸い朱の印を残した個所に、速水はねっとりと舌を這わせた。  
  徐々にあからさまに動き始める速水の手に、安積は躊躇いながらも逃げの体制を取ろうと試みる。
  「と、とにかく、離せッ、速水!」
  「ん? なんで?」  
  耳の後ろに唇を這わせ軽く吸い付いていた速水が、不思議そうに問う。まるで、安積の要求が不当なものかの様に。
  「ふ、風呂にぐらい入らせろッ。ずっと帳場に詰めてたんだ。汗ぐらい……ッ!」
  「この匂いがいいんだろう? ……お前の匂いが一層強く感じられる」
  「ッ!! 速水ッ!」  
  髪の生え際に鼻を擦りつけ体臭を嗅ぐ速水の行為が、安積の羞恥心をかき立てる。さすがにこの一言に、安積は渾身の力で逃げだそうとし出す。だが、安積がソファから体を浮かせた瞬間、その動きを利用して速水は再び相手の肢体をソファに押し戻し、その上に覆い被さる。
  「速水ッ?!」  
  必死に引きはがそうと試みるも、もともとの体力と筋肉の付き方が違う分、完全に安積の方が不利だった。
  「こんな……ッ。こんな野獣じみた……ッ!」
  「……野獣みてーなことするんだ」
  「ッ?! ……速……み……?」
  「セックスなんて野性的な行為じゃないか。野獣で上等。なおさら、風呂なんかに入れたくないなあ」
  「速水ッ!!」  
鼻先数センチの位置で囁く速水に、羞恥の余り頭に血が上り、頭痛に襲われ始めた安積が声を荒げる。
 「諦めろ、安積」
  「ッ……んッ! ……ぁ……ふ……ッ」  
  反論する前に、速水の口唇で塞がれる。  
  深まる口付けから逃れようと抗うことに気が行ってしまい、下肢への意識が疎かになっていた。その点を的確に狙い、速水の腕は意図も容易く安積のスラックスを剥ぎ取りにかかる。
  「ちょ、……ちょっと待てッ! 速水ッ!!」
  「煩いなあ。なら選ばせてやる。ここでやるのと、ベッドでやるの。どっちがいい?」
  「ッ?! ……風呂……」
  「却下だ。どっち道、汗かくんだ。後でまとめて風呂に入ればいいだろう」
  「…………」  
  こっちも今更お預け状態にされるのは困る。  
  とばかりに、速水が安積の太腿に、自分の下肢を押し付けた。安積自身も男である以上、速水の状態がどれほど苦痛なものかは、嫌と言うほど理解することができる。  
  だからこそ、もう抗うことができなくなってしまった。  
  不承不承さを隠すことなく、盛大な溜め息を吐き出すと、朱色に染まる眼元を誤魔化すことができないまま、目の前の相手を睨みつける。

  「……ベッドだ」
  「了解。ハンチョウ殿」  
  憎らしいほどに軽々と安積を抱えあげると、速水はしっかりとした足取りで寝室へと向かう。一瞬の隙でもあれば、風呂場に逃げ込むところなのだが、相手がこの速水である以上、体力勝負で勝てる訳はない。男として情けないと自暴自棄になりながら、安積はこの部屋に来て何度目かの溜め息を吐き出した。











  「……ん……?」  
  どこか遠いところで、耳障りな電子音が聞こえる。  
  だが、普段自分が使っている目覚ましとは明らかに異なるその音色に、深い眠りの世界から、ゆっくりと意識が浮上していく。すると、今まで感じなかった左腕の違和感も確かなものとして脳が判断し出す。  
  睡魔に逆らい瞼を開ければ、左腕に感じる微かな痺れと重みの正体をその瞳で確認することが出来た。  
  左腕から胸にかけて寄り掛かり、熟睡している男の寝顔がそこにあった。  
  ああ、だからこんなにも体がすっきりした感覚なんだ。と、自然に綻ぶ口許をそのまま、眼前の額に唇を軽く押し当てる。  
  さて、この心地よいひと時。カーテンから漏れる日差しが感じられないと言うことは、まだ起きる時間ではないことを知らせている。しかし、いまだに鼓膜に届く電子音は、人の眠りを妨げようと鳴り続けていた。  
  音の発信源を求め、さして広くもない寝室内に視線を巡らせる。  
  だが、それもさほど苦労することなくそれを見つけることが出来た。見覚えはあるが、自分のものではない携帯電話が、サイドボードでその存在をアピールしている。  
  昨夜散々腕の中の相手と濃密な時間を堪能し風呂で汗を流した後、安積がどうしてもこれだけは傍に置いておくと言って、寝室に持ち込んだモノだ。  
  いざと言う時の呼び出しに、迅速に対応する為だと言っていたが、これだけ長い時間呼び出し音が鳴り続けても起きないようでは、持ち込んだ意味がないのではないかと思いつつ、速水はそれを手に取る。  
  携帯電話など通常の操作はどれも同じ。  
  躊躇うことなく、速水は通話ボタンを押すと携帯を右耳に近づけた。

  『チョウさん、おはようございます。早くに済みません。所轄内でコロシです。現場は……』
  「ちょっと待て、須田。いま起こすから」
  『えッ?! その声……、速水さんッ?!』  
  携帯の向こうで腕の中の男の忠実なる部下が、驚愕の声を上げている。  
  まあ、その気持ちも分らないでもないと、速水は心でほくそ笑みながら、緊急事態にも拘らずのんびりとした口調で、柔らかく相手を揺り動かす。
  「起きろ、ハンチョウ」
  「う……ッ。……まだ……」  
  くぐもった声音を発したかと思えば、寝起きの悪さを象徴するかのように、速水の胸に顔を埋め、寝直そうとし出す。通常の彼ならば、けして取らないであろうその仕草は、速水の気分を良くさせるものだったが、さすがにこのまま寝られ、現場に向かわせなかったとなれば、安積本人だけではなく、事件に関わっているであろう捜査員たちにも迷惑をかけてしまう。  
  速水にとっては、安積以外の人間がどれだけ苦労しようと知ったことではないのだが、そのことで、周りからの安積に対する心象が悪くなるのは避けたい。  
  甘い気分になっていたが、渋々再度、今度は少し強い力で、安積の肩を揺らす。
  「ハンチョウ。このまま寝かせてやりたいのはやまやまなんだが、須田から電話だぞ」
  「んあ……ッ?」  
  実に間抜けな声だ。45歳の男が出す声ではないと、速水は喉の奥で笑いを噛み殺しつつ、いまだ寝惚け眼の安積に携帯を翳す。  
  その瞬間、寝惚けていた安積が完全に覚醒する。  
  さすが、一部の刑事から尊敬されるだけの男だ。一瞬で部下たちが敬愛する『安積警部補』の顔になった。

  「ッ! 勝手に人の携帯に出るなッ」
 「お前がいつまでも寝てるから悪いんだろう?」  
  さも自分は悪くないと言わんばかりの口調で対応すれば、安積は恨めしそうな視線を向けつつ、平静を取り繕い携帯に出る。背を向けてしまったため、どんな表情をしているかは伺いすることが出来ないが、先刻の須田の口調から、あまり楽観視できるような事件ではないようだ。  
  速水は携帯で現状報告を受ける安積を尻目に、手早く着替えを済ませる。今日の当番から言えば、まだ寝ていてもいい時間帯。だが、速水は現段階での自分の役割を即座に判断し、行動に移していた。
  「ハンチョウ、現場まで送ってく」  
  携帯を切ると、ふら付く足元と鈍い痛みを発しているだろう腰に、舌打ちしながら安積が着替えを始める。その彼に速水は簡単に声を掛け、さっさと玄関に向かう。
  「お、おい、速水ッ。お前はまた寝てろ。確か今日は第二当番だろう? いま休まないで、いつ休むんだ?!」
  「ハンチョウを現場まで送り届けたら、もうひと眠りする」
  「私のことは気にするな」  
  玄関で既にブーツを履きヘルメットを二つ手にした速水を、安積はぎこちない動きで追って来た。あきらかに昨夜の行為の余韻が残っているその様子に、速水は安積に気付かれない程度の苦笑を浮かべる
  「一分でも早く現場に着きたいんだろう? だったら、俺のナナハンに任せろ」
  「今の時間帯なら電車でも……」
  「今 何時だと思ってるんだ? 漸く始発が動き始めた時間だぞ。動いてても各停だし、何より本数が少ない。電車を待っているより、バイクの方が早い」
  「し、しかし……」
 「いいから早くしろ」  
まだ何かを言おうする安積を置いて、速水は一足先に駐車場に向かいバイクのエンジンをかける。マンションのエントランスでは往生際悪く電車で現場に向かおうとする安積の姿が見えた。  
  本当に意地っぱりな男だ。  
  フルフェイスの中で苦笑を浮かべつつ、速水は相手の行く手をバイクで阻み、手にしたもう一つのヘルメットを投げ渡す。
  「上司として、早く現場に行きたいなら、今は俺の言うことを聞け」
  「…………」  
  正義感の塊のような男だ。  
  この一言にはさすがに反論できなかったらしい。乗り慣れてなさが滲み出ている身動きで、安積がバイクの後ろに跨るのを確認すると、速水は簡素な口調で目的地を聞き出し走り出す。  
  背中越しに、呻くような安積の声音が微かに聞こえるが、気に留めるほどのことはないだろうと、さらにスピードを上げる。勿論、元交通機動隊・現交通課の係長である以上、制限速度は守っているつもりだ。  
  最短にして、最速のスピードで現場に到着する頃には、既に何人もの捜査員が現場保存にあたっていた。  
  早朝と言う時間帯のせいか、野次馬も一瞥した限りでは見当たらない。
  「ホラ、ハンチョウ。着いたぜ」
  「…………」
  「ハンチョウ?」
  「……お前の運転する乗り物には、二度と乗らん……ッ」  
  ヘルメット一つ取るのもままならないほどに、脱力した体でバイクから降りた安積の恨み節に、速水は首を傾げる。
  「何故だ? 俺は制限速度も守ったし、安全運転だったぞ」
  「……私には通常バイクが走っていいような道ではない道を疾走したように思えたがなあ」
  「近道だ」
  「…………」  
  早く現場に着きたいだろう安積の為を思っての行動だ。と言外に匂わせつつ、頬を歪めて笑う。
  「早く行けよ。お前の兵隊が待ってるぞ」  
  顎を癪って安積の後方を示すと、彼は若干眉間に皺をよせ、速水の言動に訂正を入れる。
  「兵隊じゃない。部下だ」  
 実に安積らしい返答。速水は、今度は純粋に口許を綻ばせる。そんな速水の風貌に照れくささを感じたのか、安積は手にしたヘルメットを押し付けると踵を返し、漸く聞き取れる微かな声音で礼を口にした。  
  そんなシャイな安積の様子に、声を出して笑いたい衝動に駆られる。しかし、ここは殺人現場だ。そんな不謹慎なことができるはずもなく、速水は笑いを噛み殺し、再びバイクに跨った。  
  自分はこれ以上ここにいる必要はない。エンジン音を轟かせその場を走り出す。  
  後は安積たちの仕事場だ。部外者が荒らす訳にはいかない。  
  腕に通した予備のヘルメットを落とさないよう、速水はバイクを走らせる。  
  一方、現場に到着した安積が、現状を確認すべく、近くの捜査員に話を聞こうとした時、隣接した原宿署の刑事から、皮肉めいた言葉を投げられた。
  「さすが、元ベイエリア分署の安積警部補だ。毎度、登場の仕方が派手だなあ」
  「…………」  
  毎度?  
  見覚えのないその刑事の悪意を感じさせる声音よりも、その言動に安積は僅かに首を傾げる。  
  自分は常に目立つような行動はしないようにしているはずだ。刑事とは目立ってはいけない職業なのだから。それが『毎度、派手な登場』とはどう言うことだろうか?  
  確かに今日は速水のバイクに乗ってきたのは目立つ行為だったかもしれないが、『派手』と言われるほどの行為ではないと思う。  
  困惑する安積の元に、須田・村雨・黒木・桜井の安積班が集合する。
  「気にすることありませんよ、チョウさん」
  「そうですよ。いつものことじゃないですか。あんなの」
  「…………」
  いつものこと?
  いや、速水のバイクで現場に来たのは初めてのはず。  
  それとも、悪意に満ちた厭味を言われることを指しているのか。  
  思わず安積は、須田と桜井を凝視する。  
  もしかすると、彼らも安積の行動を『派手だ』と認識しているのだろうか。  
  咄嗟に、安積は村雨の様子を伺う。彼の様子次第では、自分の今までの行動を改める必要が出てくるかもしれない。しかし、彼はいつもと変わりなく、早速現状報告を始めようとしていた。
  「よろしいですか。係長?」
  「あ、ああ、頼む」  
  当惑しつつ普段と変わらない村雨の態度に多少の安堵感を得つつ、安積は複雑な心境のまま、捜査へと気持ちを切り替える。  
  周囲が自分をどう思っているかよりも、今は目の前の事件を優先すべきだ。  
  原宿署の刑事の言葉はいつもの、厭味だろうと解釈し深く捉えることを放棄した安積は、報告を聞きながら被害者の元へと足を進めた。  
また、忙しい日常が始まる。

〜終〜

補足)上記で一応完結ですが、話は後編に続きます。後編はオフライン(同人誌「不得不愛」)に掲載しています。